仏壇の由来
仏壇の由来
日本人は古来より、太陽や月、あるいは山や海、さらには巨木や巨岩など神秘的なものに対し、自然神として崇拝しています。
古代の人々は日々の暮らしの中にいつも自然神と向き合い、おそれ敬っていたことでありましょう。
聖徳太子が仏教精神を政治に取り入れ十七条憲法第二条を天下に公示されたのを機に貴族社会に仏教崇拝が広がりました。
当時は加持祈祷や守護信仰がその多くを占めておりました。
685年天武天皇の「諸国の家毎に仏舎を造り 仏像を安置し礼拝するように」との詔勅みことのりがあり広まったとありますが、一般庶民の各家庭に広まったのは江戸時代中期頃からとされています。お仏壇に礼拝、お祈りすることは次第に日本人の生活習慣となり現在もその行為は家庭の要として大切に受け継がれています。
金仏壇のはじまり
聖徳太子の時代まだ仏様を仏壇の中にではなく、床の間にまつっていました。その後、浄土真宗の蓮如上人が、真宗門徒に対して各家に仏壇を安置するように説きます。これが今日の金仏壇のはじまりです。
我国最古の仏壇は法隆寺の玉虫の厨子です。飛鳥時代に作られ、この厨子がだんだん変形し今日のような仏壇の型となったのです。
一般的には在家で仏壇を設けるようになったのは江戸時代。今日の仏壇の型、内部の構造は仏教で説く世界の相をあらわしています。
中央部にあってご本尊を安置している台座が須弥壇です。その名は須弥山からきています。須弥山の頂上に帝釈天が居住し、中腹には四天王の神々が住み、ふもとには四州といって月日がここをめぐり人間が住んでいます。
現在の金仏壇の形式になったのは桃山時代に京都で生まれました。秀吉公の命令により聚楽第の建築のために集まった匠たちが完成後、京都に残り宮殿・寺院・仏壇をつくり出したのです。
だから京仏壇という名のもとに京都は全国的に仏壇産地として、戦前まで指導的な立場にありました。
親鸞聖人の開宗による真実の教えが蓮如上人の組織化により定着してくると共に、徳川幕府の檀家制度の実施により全国に広がりました。
お仏壇の必要性
1.心のよりどころとして
仏壇はお寺を模したもので、本来はご本尊に祈る場所です。仏教の基本は悲しみから逃れれば今生でも幸せになれるというもの、辛いときや苦しいときは早く抜け出せるように穏やかに暮らせているときはそれが続くように毎日祈る場所が仏壇です。
心が弱ったときや気持ちが塞ぎ込んだとき、祈れる場所があると心はずっと楽になります。そんな心のよりどころとして、仏壇は私達を支えてくれることでしょう。
2.命のつながりに感謝する場として
2人の父母、4人の祖父母、8人の曾祖父母、16人の高祖父母、5代前となる高祖父母の親は32人、わずか5代前にさかのぼるだけで、命をつないでくれた人は実に62人に上ります。命の誕生そのものも奇跡の連続ですが、命のつながりを奇跡と言っても決して大げさではありません。
仏壇には自分の命をつないでくれた先祖に感謝をし供養をする役割もあります。子供達が命のつながりを確認し、自分の命の大切さを知らず知らずのうちに学ぶ場としても大事です。先祖や家族とのつながりを再確認する場として仏壇は必要でしょう。
3.悲しみをいやす場として
悲しみは必ず訪れる、しかしいつまでも同じではない。というのが仏教の基本的な教えです。
大切な人を偲ぶ場、亡くなった人と語らう場として悲しみをいやすというのが、現代でも変わらない仏壇の大きな役割。仏教との関係が希薄になっている現在、仏壇は大切だった人との語らいの場としての必要性が大きくなっています。「大切な人ともう会えない」という事実を受け入れるのがグリーフケア(悲しみから立ち直る為の支援)の第一歩です。そのとても重要な役割を仏壇が担ってきたといえるでしょう。だからこそ、各家庭に仏壇が置かれ続けたのだと思います。